サビルナ会読会

2012年4月17日 (火)

ベストセラーは読むな

 ベストセラーは読むべき,いや,買うべきでもない。岡野さんのかつての忠告にもかかわらず,本屋大賞第1位を買って読んだ。読了直後は,さほどの感想もなかったが,1日経つと「つまらなさ感」が漂い始めた("つまらなさ感"はGoogleで12,000件ヒット)。「寂寥感」というと寂しさがつきものだが,そうでもない。著者の甘さに気づきつつ最後まで読んだというのも確かにある。その理由を思い浮かべたが,まず,中で流れる時間に比してページ数が少ない。簡単に言えば,書き込みが浅い。ほぼ現在から10年ほど先の未来を描いていると思われるが,その割りにここ10年の変化ほどにも変化しない世界と対象を描いている。
 主人公は学部で言語学を専攻したと書いているが,修論で何を採り上げたか(そんなことはエンターテイメントには必要ないが)とか,およそ言語学を専攻したことはなさそうで,研究者としての態度も見られない。市井の本の虫程度だ。つまり,主人公の作り込みが中途半端に思える。昨年11月にとあるブログに書いてあったように,現実味が乏しい。「一昔前」という表現がぴったりだが,冒頭に「携帯を持っていない変人」として描かれており,少なくともここ5~6年がその舞台であろう。
 ほぼ全編が三人称だが,「俺」という一人称が地の文ででている箇所もある。誰に感情移入しているのか,読者は主人公として読めばいいのか,ぼくは少し戸惑った。

2012年3月20日 (火)

『フリー~〈無料〉からお金を生みだす新戦略』

 

 『フリー~〈無料〉からお金を生みだす新戦略』を今日読み終えた。というか,少し前に買っていたのに,ジュンク堂の袋に入れたまま忘れていた。夜,少しずつ読んで,三日かかった。ビジネス・モデルの話としても,〈希少⇔潤沢〉の話としても考えさせられるところが多い。
 ぼくは,著作権というものの,特にビル・ゲイツ達が無原則(と思うのだ)に拡大してからの著作権なるものに懐疑的だ。「ある人間の中にしかなかった英智」という仮構があるからだと思う。もう少し具体的なものとして,音楽家達が「CDのコピー」に反対する際の「作品を創造する際の努力を無視している」と唱えるのも,どうかと思っている。確かにデジタルデータになってから,品質の変わらないもの(海賊版)が多く作られ,それが本物の生み出す利益(貨幣的価値)を奪っているのは事実である。では,本来そうした利益は妥当なものだったのだろうか?おそらく,秋元のAKBプロジェクトは,デジタルとして品質が変わらないのであれば,デジタルとアナログの違いを,そして,「投票」という名の参加権に利益を転化させて,CD販売を伸ばし,楽曲の中身や品質を変化させたのだ。

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 ビジネス・モデルに「フリー」はどう役立つのだろうか?そのモデルを,いくつか,巻末に掲げていた。そこへ至る過程で,非貨幣的価値(注目:トラフィック,評判:リンク)が本来のビジネスへどう貢献するのかを考える必要がある。お茶を出すとき,粗茶であれ,茶碗の向きをきちんとすると,良い接客になり,来校者の印象が変わる。こんなことを今,うちの学校の受付は真剣に考えている。茶碗の向きそのものは,コストのかかる(負の貨幣価値が生じる)ものではない。また,売上を生じるものでもない。しかし,そうしたことが評判を呼び,学校への注目が高まれば,わずかな商材(決められたものしか売れない)であっても,コアなコンプテンシーにつながるかもしれない。

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 卒業式で,卒業生全員に着物を着せることは,今「無理なこと」らしい。だから,何とか無理でない方法を考えよう。過去に作った模擬試験の問題を,養成講座のサイトに載せることは,これまた,「難しい」ようだ。しかし,フリー(貨幣的価値を要求しない)で,サービスを行うことは,トラフィックを増やし,リンクが増えるかもしれない。

2011年11月30日 (水)

岡野塾第6講 了

 昨日,第6講が終わった。おそらく,近年の岡野塾で一番学習した,と思いたい。
第1講 《記憶と抽出》 知と知がつながる相関力
第2講 《読解と説明》 ポイントを押さえる抽出力
第3講 《問いと答え》 前提から始まる解決力
第4講 《概念と表現》 コンセプトをつくる連想力
第5講 《観察と偶察》 見えざるを見る着眼力
第6講 《統合と分類》 配列を見立てる編集力

 近年で一番学習した,と思う根拠の一つは,第3講から,前講までのレジュメを必ず持参したことである。やっと「覚えられない」「できるようにならない」ことに気づいたわけである。また,パワー・ポイントのファイルをまだ正式には請求していない。まず,紙媒体を噛み砕いて理解して,したつもりになって,12月のプレゼンテーション大会でいただこうと思っている。
 しかし,このように講義のタイトルを振り返るだけで「学習した」つもりになれるのだから,こんなにコスト・パフォーマンスのいい学習はない。人間,「やったつもり」ができなければ,次へ進まない。

2011年11月 5日 (土)

『モッキンポット師の後始末』/バチスタ手術

 会読会では,小説を採り上げない。だから,タイトル本の要約を作ることはないだろう。ここ二日ほど,井上ひさしを立て続けに読んだ。新しく買ったものではなく,以前求めたものを機会を計っていたら,白内障の手術で,16日ほど酒が飲めない。別に,四国八十八カ所(内,27番までしか行っていない,いわゆる「区切り打ち」)を歩いたときは,酒はなかった。飲む気もなかった。飲もうと思えば飲めた。しかし,歩きながらなので,読書はできなかった。酒を飲みながらの読書もいいが,まとまって飲まない期間があると,普段より2倍ぐらいの読書量になる。ぼくは,買った本を,すぐ,端から端まで読む,というスタイルは採っていないので,今回はちょうど良かった。また,岡野塾で出た,目次とタイトルを見て,「ここが胆(キモ)」という読み方もやってみた。
 昨日読んだのは,3冊。『日本語教室』『にほん語観察ノート』が井上,『外科医須磨久義』が海堂尊。

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 『日本語教室』は,井上が出身の上智大学で4回講義をするというもの。Nihongokyoshitsu帯から拾うと,母語は精神そのものです/言葉は常に乱れている/朝日新聞の「新」の自が意味すること/東北弁は標準語だった!?/芝居はやまとことばで/「美しい日本語」などありえない/茂吉の名歌に学ぶ/音読のすすめ/駄洒落の快感/日本人に文法はいらない/モンゴル語を勉強した司馬さん/世界に開かれた日本語に,である。
 中では,「スペイン語が国連公用語になった理由」が面白い。ぼくの不明を恥じたが,果たして井上の解釈でよいのか?しかも,この節は,タイトルと節末の結びがバラバラで小論文としては落第点に近い代物である。しかし,井上の文章は,読みやすく,したがって,岡野さんの言うように「忘れやすく」,果たして,永遠に心に響いたり,頭の片隅に残ったりするのか,霞のように不明なところが魅力である。
 例えば,スペイン語が国連公用語に採用されたのは,第二次世界大戦中に,中立国として,枢軸国と連合国が戦っていく過程で生じる悲劇を「徹底的にカバーした」からだという。そうして始まった節の結びの段落が,「日本語をちゃんと何不自由なく使っているわれわれが,どうして日本語をもう一度勉強し直すか。それには,こういう状況があるからですよ,ということを,まずお話しいたしました。」では,節鯛がちんぷんかんぷんだ。おそらくは,井上には責任がないのだが,講義は限りなく話し言葉,また,井上のものは即興が多分に多いのだろう。あとから編集した誰かがインパクトのある題目を掲げたのだが,「羊頭狗肉」に近いものになったようだ。

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 続いては,「にほん語観察ノート」。「1999年から2000年にかけて、読売新聞日曜版で連載されていたコラムが1冊の本になったもの」だそうだ。中公文庫版のp253から「二十一世紀の流行語」とある。1999年8月1日に掲載されたもののようだ。
 共同通信7月18日ロンドン発の記事を引いている。

Nihongokansatsunote
 岡野塾と同じテーマを12年前に書いているのだが,その頃のデータでは,地球人口は「2013年には70億人」とある。2年も早く,目標(予測?)に到達したわけだ。こうしたことを見るに付け,新しいものばかりを追いかけてはいけない,と自戒する。ほんの10年ばかり前でも振り返ると,「歩みがのろい」のか,「早い」のか,変化はあったか,亡かったかを見る機会を与えてくれる。
 p135には,「拗音の直音化」とあり,この頃に,アナウンサーが「手術(シジュツ)」といっているという愛媛からの当初を受けて,井上が考察している。そして,「わたくしが専属で書いていたころの話ですが,「シュ,ジュを含む発音のことばの中で,発音しにくいものがあれば,シ,ジに近く発音することも認める」(「文研月報」65年4月号)と決めていました」と紹介されている。46年前にNHKは「直音化」を許していたのである。何も10年そこらの流行でもなかったのだ。もっとも,そんな典拠を示されなくとも,現象には,なにがしか気がついていたし,ぼく自身が「言葉とは,替わるものだ」という実感を強く,持っていたので,気にならなかった。気にはしていたが,所詮そんなものと諦めていたのかもしれない。
 それにしても,役所というのは前例を踏襲したがるのに,カタカナ語を導入したがり,横の部門との違いを強調したがるのだろう。PKOでの外務省と防衛省の諍いがあるようだが,結局は,縄張り意識が強いのだろう。
 もう一つ,p53からあるのが,「語彙数推定テスト」はどこかでやったことがあるような,ないような。50並べられた語彙の何番までが分かり,その次から分からなければ,被験者の理解語彙は推定n語というようなものだ。ところで,これは飛び越すとどうなるのだろう。43番の「辻番」を説明できるけれど,42番目の「告諭」は知らない,とかはどれぐらいになるのだろうか。45番の「輪タク」は知っているけれど,44番の「ライニング」は聞いたこともない,ということもあるだろう。これの元になった,NTTコミュニケーション基礎科学研究所は,今何やってるのか,ちょっとサイトをのぞいてみよう。

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 海堂尊は,医師であり,『チーム・バチスタの栄光』以来,ヒット作を連作している。昨日,『外科医須磨久義』を読もうと思ったのは,とてもミーハーな動機である。原作は読んでいるが,映画は見ていない。どこで読んだのか,多分,『ブラックペアン~』の後ろに付いていた対談。吉川は,準主役の天災外科医を演じたらしい。その指導に,須磨久義が当たったそうだ。

Gekaisumahisayoshi
 これも,単行本の割に1,200円と安く,これは,ベスト・セラーだからだろうか。奥付を見ると2009年7月に1刷,8月に2刷になっている。ベスト・セラー作家のものだから3万部ぐらいは出たと思われる。
 須磨は1950年の寅年生まれ,神戸の出身で,甲南中・高から大阪医大へ進む。現役だ。そうした,挿話で綴られたもので,海堂自身も,須磨の語りをまとめたものと,解題からという風に最初からネタばらしをしている。読んでいる(ほとんど映像感覚のもの,途中から,使われている外来語を漢語か和語に置き換えられないか,と考えながら読んでいたので,ドキュメンタリーというよりラブ・コメ並みの小説の読み方)と,「あれっ,これって,プロジェクトX向きじゃん」と思っていたら,本当にやっていたのだ,それも10年以上も前みたいだ。
 「神の手」と呼ばれる心臓外科医の存在と須磨の名前が,ぼくの脳でリファレンスがとれていなかったようだ。呼んでいる途中でも「バチスタ」が人名だから,当然「スマ」という術式が出てきてもおかしくないのに,これが「須磨」の名前由来だと分かるのに数ページも行き過ぎた。アメリカの医師の所感の中に「スマ等」とあり,スマートなんちゃらの略の「スマ」だと思っていて,これに「等」が付くのはおかしいよな,と5ページぐらい戻ってみたが,スマートもスマイルも見当たらず,あ,そうか,と思った次第である。
 須磨の手術は早いらしい,いや,早かったらしいと言うべきか。同時に始めた公開手術が佳境に入る頃に,須磨はすでに手術室から出て,会場で,オブザーバーたちと別手術のモニターを眺めていた,という逸話があった。須磨に言わせると「早さ」とは,どれだけ,イメージができているかだという。ネガティブなイメージから始まり,それを克服する過程をイメージし,手術室に入る頃には,手術終了,成功して出てくるイメージを持つのだそうだ。
 だから,無駄なことはやらない,いきなり本線に取りかかる。傷口の縫合も急ぐのではなく,リズムをとって休まない,ということらしい。
 プロジェクトXのDVDは単体売りをしていない。7巻セットで26,600円である。ビデオは教材としても,本書はどうしよう。研修用の書籍とするか。

2011年10月14日 (金)

メイビーいいわけ

 『詳説〈統帥綱領〉日本陸軍のバイブルを読む』を購入した。新しいものを買ってはいけない,という会読会主宰のお言葉ではあるが,本物は復刻版(厳密な意味では復刻ではない)で高い(6,300円である)。
Tosuikoryo
 著者は柘植久慶。軍事ミステリーを多く書いている。この,戦前の統帥綱領を取り上げたのは,「こんな立派な綱領で将官たちを教育したのに,秀才たちが誤り,第二次世界大戦を敗戦に導いた」ことの反省らしい。しかし,戦略本はあくまで戦略本である。「戦争」を仕掛けて「勝つ」ための心得が書かれているはずだ。PHPから出せばビジネス本に変わるわけでもあるまい。とはいうものの,ぼくもなにがしかビジネスの種を得ようと思って購入している。浅ましきは,現代のビジネス・パーソンか,はたまた近代の将兵か。
 ただ,語るに落ちるわけではないが,1冊の本には反面教師としてであれ,何かの教訓が一つはある。証券ビジネス学院(アークアカデミーの経営者はここ出身。教える側)のS氏は生前そのような言葉で,若かりしぼくをたしなめたことがある。下らんハウツー本と頭から馬鹿にしてはいけない,という諫めだった。
 だから,ぼくもこの柘植の解釈本から一つ以上の何かを得ようと試みるつもりだ。うまくいけば次回の会読会の寝たにもなるだろう。ほら,一ついいわけができた。ちなみにAKBの13枚目のシングルは「言い訳Maybe」である。


2011年10月 8日 (土)

『交渉術』佐藤優

Bokurazuno

 『ぼくらの頭脳の鍛え方』を立花隆とともに著した,佐藤のタイトル本を読む。『ぼくら~』は膨大な読書リストだが,この中から何を買ったかということですぐ思い出せるのは『風の谷のナウシカ(全7巻)』だ。映画(アニメ)は『ナウシカ』のほんの一部しか描かれていない。きわめて宗教色の強い,大人しか鑑賞できないような「漫画」だった。関係ないかもしれないが,有川浩の『図書館戦争』シリーズのアニメ化の際も,聴覚障害者が絡むストーリーが登場しないように,ストーリーを変えさせられたらしい。東日本大震災の津波映像で,流される人間をすべて消し去ったように,この国の報道機関や映像提供業者たちは,どこかピントがずれている。「由らしむべし,知らしむべからず」なのだろうか(この引用が適切かどうか,やや疑わしいが)。

Koshojutu

 『交渉術』は佐藤のソ連(ロシア)外交官時代のエピソードがたくさん載っている。引用されているものの中に,ウォルフガング・ロッツの『スパイのためのハンドブック』があり,どうやら,次はこれを買ってしまいそうだ。Amazonによると,同著者の『シャンペン・スパイ』が合わせて買われているらしい。宜なるかな。ただ,ここでクリックしてしまっては単なる読書屋になってしまう。Amazonの出版社いじめ(50%が仕切りらしい)は知られたことなので,この「便利さ」の誘惑に負けないように古書店巡りの時のリストに加えておこう。
 スティーブ・ジョブズが亡くなって,死ぬまでの間に「何ができるか」を考える機会を与えられたにもかかわらず,相変わらずの書籍漁りでは,先が思いやられる。

2011年9月19日 (月)

「文章術」を読む

 ここ何日かで立て続けに,文章作成についての新書を読んだ。

Honmono

 一番大きな理由は,検定試験の受験者に直前の参考書として示すためだ。というのも,検定演習科の問題に出ていた『かなり気がかりな日本語』の野口恵子が「後書き」に挙げていたからだ。野口の投書を見かけた編集者が執筆を勧めたところ,とりあえず,3冊買って,「文章術」に備えたそうだ。その3冊を読んだところ,記述対策,小論文対策になりそうな事柄が,整理して書かれていた。3冊のうち2冊が樋口裕一のものである。

 特徴的なのは「小論文」は,YES/NOを書くのだということだ。しかし,こう書いてみると,いかにも,これだけのことを知らずに「論述」をしようとしている人がいかに多いのかということに気づかされる。樋口は,文章術関連の書籍を多数出している。年間売上1位のものもあるようだ。また,東進ハイスクールなどでも売れているようだ。もし,これが「文章術」ではなく,「論駁術」ならこれほど売れたのだろうか?書いている内容は,ディベートの準備と大して変わらない。ディベートは「論駁術」なので,難しいと思われているのだろうか?

Chobunsho

 樋口以外に野口恵子が挙げていたのが「野口悠紀雄」だ。この後書きにもあるように,悠紀雄には,「偏り」がある。「さらなる」の使用禁止まで謳っている。樋口裕一のカリスマ的存在といい,悠紀雄の「『さらなる』禁止令」といい,この年になるまで気づかないことがあるものだ,と反省することしきりだった。恵子は,「さらなる」が誤用であることに気づかなかったと自省したが,悠紀雄が書いたのが2002年,恵子が著作を著したのが2006年,それからさらに5年を経て「さらなる」は誤用と言えるのか?悠紀雄は「全共闘世代の使用」か,と書いていたが,それならすでに40年が経っており,「ナウい」の消滅と比較すると,立派に市民権を得たと言うべきではないか?また,ぼくには「さらにある」の短縮形のように感じる。「そこにある」→「そこなる」と同じで,活用のない副詞「さらに」の活用させた誤用ではない。

 ともあれ,似たような分野のものをまとめて読むのも,異種の書物を平行して読むのと同様,なかなかタメになる。

2011年7月 2日 (土)

グローバルマネジャー読本

 前回の会読会で,読みたくなった本が2冊あった。Oさんの紹介した将棋本と,もう1冊が,Mさんのタイトル本である。こちらのほうは,ちょっと間が空いて,昨日読んだ。
 いやぁ,実に面白い。ぼくの仕事の範囲とか研究分野(というほどのものでもないが)と相当程度重なっている。タメになる。ちょっと引用してみよう。著者の大学院での恩師でもある,ロバート・モラン教授はこのような例を引いている。
 「子どもと一緒に寝る」の反対は「子どもと別々に寝る」である。「子どもをより愛す」の反対は「子どもをそれほど愛していない」である。最初に引いたものは「単なる事象」である。次に引いたものは主観的結論である。日本では,この二つをイコールに結びつけて考えることが多い,というのである。この後に,こう書かれている。Globalmng 「そして異文化の環境において、論理的におかしくとも、われわれは自分の文化的価値に基づいていかにたやすくこうした間違いを犯してしまうか」(漢字表記,句読点は原文のまま)。
 また,こんな下りもある。「『世界で最も話されている言語は何か?』」
 「答えとして,私は最近三つ挙げている。まず一つ目に,言語ということで,ボディーランゲージ。二つ目,英語は英語でも、ただの英語ではなくブロークンイングリッシュである。そして三番目がインターネットイングリッシュである」。
 この後に,ブロークンイングリッシュとはインターナショナルイングリッシュであり,日本語ネイティブは,インターナショナルイングリッシュでもネイティブで多数派であり,アメリカ英語ネイティブ,イギリス英語ネイティブはインターナショナルイングリッシュにおいてはノンネイティブで,少数派である,と説く。
 「従って、多文化の環境においては『インターナショナルイングリッシュを使うのはグローバルマネジャーの基本スキル』ということを、私は海外のセミナーでは触れることにしている。特にアメリカ人には『アメリカンイングリッシュではなくインターナショナルイングリッシュを使用せよ』と言っているのである」(漢字表記,句読点は原文のまま)。
 ギアート・ホフステッドによる異文化の経営行動の調査も面白い。本来は,ぼくも原文に当たるべきだろう。そのまま,異文化コミュニケーション,文化比較的なものに引用したい。五つの側面(原文はディメンション)から,53カ国におけるIBM社員の意識調査を行っている。個人主義が集団主義かで,日本は23位(1位はアメリカ)になる。権力格差では,日本33位,アメリカ38位。「日本が縦社会であるというのは、あくまでもアメリカから見た場合である」。これは,中根千枝によって世界的に有名になった「縦社会論」が,1991年には,グローバルな視点では「正確ではない」ということであり,相変わらず,そうした「経営データ」とは無縁のところで,異文化論を研究し続けている,第二言語習得研究者に対する一種の警告となろう。
 「経営戦略のエキスパートとコミュニケーションの専門家との間では、お互いに相容れないないものと見る傾向が根強い。今日の情報社会ではコミュニケーションがビジネスの中核能力であることが認識されているが、それでもコミュニケーションの質に注意を払う戦略コンサルタントや経営学者は少ない。一方、いわゆる『異文化の専門家』はコミュケーションスタイルの比較はしても、そこから企業戦略、組織経営への示唆まで踏み込む人はこれまた少数なのだ。」

 なんか,今回は引用ばかりになってしまった。

2011年6月20日 (月)

読みたくさせる,選書

 先週の水曜日はサビルナ会読会だった。この会読会は,書籍を紹介し,感想を述べるというものである。紹介された書籍は,参加者が購読することなく理解できるというもので,「読書の手間を省く」というのが会読会の主たる目的である。と,ぼくは理解している。
 ところが,そうした趣旨で始まっている会読会ではあるが,時ならず,紹介された書籍が読みたくなる。今回も,『どうして羽生さんだけが、そんなに強いんですか?』と『グローバルマネージャー読本』が読みたくなった。子どもみたいに,「~たくなる」とその方向へ進んでしまうので,Amazonで注文した。先週末には両方とも届き,読み始めた。将棋本を読むのは,何十年ぶりのことだろうか。高校の時,1年上に詰め将棋作家がいた。実際『将棋世界』に投稿して,採用されていた。触発はされなかったし,多分,ぼくが一番将棋を指したのは小学校2~3年生の頃だ。
 しかし,この『どうして~』はなかなかに面白い。会読会で,紹介された羽生の「棋譜を見れば木村さんが指したものとすぐ分かる」という言葉を,ぼくは少し誤解していた。羽生ともあろう者がそうした意図で,こうした言説を用いるはずもないのだが,この言説にぼくは「たかが」というような副詞を添えて理解していた。もちろん大変な誤解だった。今風に言えば,羽生の木村一基に対する,最大のリスペクトであった。こうしたことがあるから,「読まないための会読会」が「読むべき何か」を見出すための読書会となる。物事の価値は,常に両義,複義である(ぼくは,打ち間違い,誤変換は激しいが,「ふくぎ」で副木(そえぎ)が出てくるのはいかなるものか。~ったく)。
 本書には「棋士には,研究者と勝負師と芸術家という三つの側面がある」という下りがあり,山崎隆之を「芸術家的なところが強い」と評しているのだが,その三つの側面とは何かについては何も語っていない。つまり,この論説はきわめてハイ・コンテキストである。読者に何も語らなくとも,この三つは自明だと決めつけている。シリコンバレーで働く,きわめてロー・コンテキスト,ハイ・コンテンツな著者の論としては,奇妙に感じられる。ここに,日本語の特徴が見られるかもしれない。日本文化がハイ・コンテキスト(文脈依存型,無言にも関わらず了解済み)という理解が普通だが,日本語そのものが造語する際にハイ・コンテキストになっていることの証左ではないか,と感じた。
 造語の「アラサー」は30歳前後ということだが,「アラカン」は還暦前後である。Around30という和製英語の縮約つまり外来語と漢語混じりの混種語という造語群を瞬時に理解して,理解語彙なり使用語彙なりとしてコンテキストの中に埋め込む能力は日本語に根ざすものと思うのだ。

2011年6月16日 (木)

非・読書会

 サビルナ会読会には,一つの変わった目的がある。読んだ本の中身を語ることで,参加メンバーが「ありがとう,おかげでその本を読まず(買わず)にすんだ」と言い合えることだ。18回という回を重ね,「覚えていない」=「思い出せない」ほうが多いが,言われれば,「あ~,それ,それ」と言えるぐらいには,記憶の端に残っている。また,実際には,会読会で紹介されてから購入したものもある。昨日発表された中にも購入するものがあった。以下のものが紹介された。

 『おいしさを科学する』伏木亨,ちくまプリマー新書
 『身体の痛みの9割は首で治せる!』三井弘,角川SSC新書
 『上方落語 十八番でございます』桂米二,日経プレミアシリーズ
 『どうして羽生さんだけが,そんなに強いんですか?』梅田望夫,中央公論新社
 『グローバルマネージャー読本』船川淳志,日本経済新聞社
 『デフレの正体』藻谷裕輔,角川oneテーマ21
 『児玉清の「あの作家に会いたい」』児玉清,PFP研究所
 『40代にしておきたいこと』本田健,大和書房

 15回は参加しているから,120冊は「読んだ(聴いた)」ことになる。