« 2011年10月 | トップページ | 2011年12月 »

2011年11月

2011年11月30日 (水)

岡野塾第6講 了

 昨日,第6講が終わった。おそらく,近年の岡野塾で一番学習した,と思いたい。
第1講 《記憶と抽出》 知と知がつながる相関力
第2講 《読解と説明》 ポイントを押さえる抽出力
第3講 《問いと答え》 前提から始まる解決力
第4講 《概念と表現》 コンセプトをつくる連想力
第5講 《観察と偶察》 見えざるを見る着眼力
第6講 《統合と分類》 配列を見立てる編集力

 近年で一番学習した,と思う根拠の一つは,第3講から,前講までのレジュメを必ず持参したことである。やっと「覚えられない」「できるようにならない」ことに気づいたわけである。また,パワー・ポイントのファイルをまだ正式には請求していない。まず,紙媒体を噛み砕いて理解して,したつもりになって,12月のプレゼンテーション大会でいただこうと思っている。
 しかし,このように講義のタイトルを振り返るだけで「学習した」つもりになれるのだから,こんなにコスト・パフォーマンスのいい学習はない。人間,「やったつもり」ができなければ,次へ進まない。

2011年11月20日 (日)

2ちゃんを読む

JEESのリンクが訂正されていた。2ちゃんに「JEES,ここを読んでいるのか?ならば,答えてくれ!」とのラブコールがあった。読んでいないと思う。読んでいても2ちゃんには書かない。自分のサイトにも,書かない。来月の「正解発表」だけだろう。
 ぼくも2ちゃんに書かれたことがある。しかし,何も書かなかった。このブログにも書かなかった。2ちゃんねるは相手が誰かも人数もわからない。スレッドで盛り上がっているようでも突如小さな揚げ足取りで炎上する。匿名だからかもしれないが,口穢い。性別を隠すためか,ひょっとしたら普段は決して使わない表現でも書き散らかすように見える。
 

2011年11月14日 (月)

リンク切れ

 自分のサイトにリンクを張るのであれば,本来,そのリンク先にきちんとジャンプするかどうかは,そのサイトの管理者の責任である。このブログでもリンクをしばしば張るが,リンク先が「生き」ているかどうかの確認は,ほとんどしていない。企業などの広報サイトや情報系サイトであれば,リンク切れが起こらないようにチェックする必要はあろう。個人のブログでどこまで「まめ」にそれをするか。リンクを張らずに,引用形式をとるのが,無難だろうか?それにしても,原典を挙げるなりすると,どうしてもリンク(もしくはURL掲載)にならざるを得ない。どちらの方法をとったとしても,「リンク切れ」の責任は,どこかに向かう。

 検索サイトですら,リンク切れを起こすのである。個人のサイトが,自分の書き散らしたブログにそこまでするのか,という考えが比較的強い。どこかからの指摘があれば,訂正するにはやぶさかではない。

 日本語教育能力検定試験は社団法人日本語教育学会が認定している。したがって,主催者団体の,検定試験のページ右上には「本試験は、社団法人日本語教育学会の認定を受けています」(句点無し,ママ)という表示がある。これには,http://wwwsoc.nii.ac.jpというリンクが張られている。http://wwwsoc.nii.ac.jp/ とは,「国立情報学研究所 学協会情報発信サービス」のことであり,2010年7月30日をもって,サービスを終了している。直打ちで,サイトトップに行くと,各学会のサイトが50音で検索できるようになっている。しかし,日本語教育学会は,すでにhttp://www.nkg.or.jp/というURLでずいぶん前からアクセスできる。どうして,検定試験のリンクが前のままなのかはわからない。さらに,これをクリックすると"Not found"になる。「本試験は、社団法人日本語教育学会の認定を受けています」が「指定されたURLは存在しません」では,試験の威厳はかたなしだろう。どうなっているのだろうか。

2011年11月10日 (木)

「第13回図書館総合展」が凄いらしい

http://2011.libraryfair.jp/node/130(本当はタイトルにリンク張りたかったんだけど)

 ボイス・レコーダーで『図書館戦争』別冊へのボヤキを入れていたら,それどころの話じゃないらしい。たまたま,きのうもまた,大学人以外では論文のアクセスが難しいと,このブログでボヤいていたのだが,もっと凄いことが進行中のようだ。

 SciVerseという新しい,論文のプラットフォームがすでにできているようだ。http://japan.elsevier.com/trainingdesk/sciverse_201009.pdf に公開されている(リンクは張らない。読みたい人がコピペで開ければ,すぐに読める)。これはパワポファイルをPDF化したものだから,昨年の今頃どこかで発表された代物のようである。いくつかに分かれていて,バラバラだった論文データ・ベースを統合するのが最初の段階のようだ。つまり,検索が楽になる,という。なんだか,査読までして,論文通過ポイントまで評価してくれそうだ。

 図書館の危機は,「検閲」からの危機ではなく,「不利用」による危機のようだ。ぼくも名前ぐらいは,聞いたことのあるジョンズホプキンズ大学 は,図書館を閉鎖したらしい。「閉鎖」というと誤解を招くが,来館者向けのサービスをやめるということである。「来館」できないのである。閲覧するために,本棚を巡り歩いたり,マイクロフィルムを出してもらって,リーダーで読むということ,資料を借りるということ,が採算(といっても図書館に本来収入は発生しないが)に合わないのだそうだ。情報提供は電子化されつつあるため,紙媒体の「図書を借り出す」人はほとんどいない,という。「書物」という物体の管理から,情報の管理へと「図書サービス」は変化しつつある。

 子供の絵本図書館やサービスはまだまだ残るだろう。しかし,大学図書館で「先行研究」を探したり,引用したりするのは,今後,ますます電子化される。ぼくなんか,引用に「認証」すらつけてもらえると,正確性が伝わっていいのでは,と思うくらいだ。論文の最後の書誌もハイパーリンクが張られるだろう。「先進的」かどうかはともかく,あと3年もすれば,日本の大学図書館もかなり変化する。国会図書館でもどんどんデジタル化が進んでいる。今後は,定期的に電子化されたものと,原本のチェックが必要になる。そうした「科学知識のある」図書館司書的な専門家が今まで以上に増えるかもしれない。

2011年11月 9日 (水)

論文を探す

インドネシアで,日本語の博士論文を書いている人からの連絡だと言う。ある文献があちらでは手に入らないので来週別用で訪れるアーク大阪の職員へ託せないか,という相談である。
これが,大阪大学の出版物なのだが,普通の図書館に置いてあるわけではない。40年以上に亘る友人に探してもらった。以下の文献だ。
---------------------------
仮定的な時の副詞節について
「とき(に)は」を中心に
著者 仁田 円
請求番号 Z13-4549
記事ID 6052908
雑誌記事ID 479506400
----------------------
調べてもらったら,置いてある場所が分かったというので送ってもらった。


JF-London 17<2007-2007>
これは国際交流基金のロンドンだろう。
JF-日本語セ 1-19<1991-2009>+
同じく基金。北浦和の日本語センターか。以下は大学のようだ。

羽衣 11-20<2001-2010>+
岡大 附属図 8,10-13,15-16<1998-2006>
京大文 図 9-20<1999-2010>
九大 文 5-15<1995-2005>+
九大理系 伊都中央 1-2,4,6,8-11,13-16,18<1991-2008>+
光華女 1-6<1991-1996>
広大中 教・日本語教 3-12<1993-2002>
広大中 国際セ 2-5,8-10<1992-2002>
広大中 図・書庫紀要 19-20<2009-2010>
弘大 本館 16<2006-2006>
国語研 1-20<1991-2010>
↑は国研ですね。
国文研 全冊開架 10-21<2000-2011>+
阪教大 図 10-11<2000-2001>
阪大外 1-19<1991-2010>+
阪大総 図 1-14<1992-2004>
信大教 17-21<2007-2011>
西南院 図 17<2007-2007>+
東外大 1-18<1991-2008>+
東大文 視教セ 1-19<1991-2009>
同女大田 田 1-17<1991-2007>+
奈大 図 1-20<1991-2010>
南山大名 図 17-21<2007-2011>+
梅花女 1-21<1991-2011>+
名学大瀬 6-7,10-17<1996-2007>+
名大情言 情報・言語 1-2,4-15,17-21<1991-2011>+
立命館 修学書庫 1-8,11-12<1991-2002>+
龍大宮 図 1,4-13<1991-2003>

なるほど餅は餅屋だ。1分で答えが返ってきた。大学だけなんだろうか?国会図書館関西館にあるはずだと言う。あそこは遠い。今,土日も梅田校に出ているので行くのは厳しい。
低頭してコピーの取り寄せをお願いした。
京阪奈学研都市とはいうが,結局,どこからも遠いということではないか?また,日本語教育機関では,こうした論文検索やコピーの取り寄せは難しい。教育界に参入障壁が多い(高い?)のはあたりまえか。

2011年11月 8日 (火)

ボイス・レコーダー

 アイデアは寝ているときにひらめくそうだ。夢のアイデアは「夢と化す」。「寝床にはいつもメモ用紙をおいておきなさい」などとも言う。せっかく,ボイスレコーダーになるiPhoneがあるのだから,読書の最中や気のついたときに「ボイス・メモ」することにした。これって,ハリウッド映画なんかでは,かなり昔からありましたね(TVシリーズでは「Xファイル」なんかでも)。

    ☆    ☆    ☆    ☆

 11/11/03 20:25 「井上ひさし 私家版日本語文法。え~。180ページあたり,やっておくれ,恩に関することがらと『やりもらい』について」
 11/11/03 20:25「私家版240ページ。知覚におけるズレは統語構造上の境界に集中する」
 11/11/04 04:03「井上ひさし 私家版日本語文法。え~。271ページから272ページ。予測。エントロピー小,エントロピー大。エントロピー大は予測がつかないほど作者は読者の心をつかむ」
 11/11/04 05:24「井上ひさし 日本語教室。92ページ。きまり=大和言葉,きそく=漢語,ルール=英語。「きまり」はみんなで「決める」「決めた」。自動詞「決まる」。居体言「決まり」」
 11/11/04 06:13「日本語教室。154ページ。相良守次(さがらもりじ)。日本人が一息で発音できる音節数は,だいたい12~15。『日本詩歌のリズム』(ショメイ)」
 11/11/05 00:55「交感的日本語使用とは,相手の存在を認めたり,人間関係の基本を整えたりする対話のこと。井上ひさし,にほん語観察ノート,198ページ」
 11/11/07 02:35「有川浩,別冊図書館戦争Ⅰ,96ページ。ふりがな「ちょくせつ(直截)」で合っています。心改めたのかなぁ,と一瞬思いました。260ページ。「ちょくさい(直截)』に戻っています。確信犯ではないかと思いました」
 11/11/07 06:42「図書館戦争シリーズ6。別冊Ⅱ。86ページ。「執り成す」漢字表記,これでいいのかな」

    ☆    ☆    ☆    ☆

 どうなんだろう,もっと建設的な意見を吐いているかと思ったら,備忘録と揚げ足とりか。

2011年11月 7日 (月)

少数派Part2

 「一連の語を体系として提示し,整理する」ということに関して,体系として語彙を提示する際の留意点として最も適当なものを,つぎの1~4の中から一つ選べ。

  ☆  ☆  ☆  ☆

 日本語教員になろうとするものが,日本語を母語としない学習者に日本語を教える際に,上記のような設問がなされた。さて,選択肢のどれを最も適当とするべきか。

 「類義語や対義語は常に同じ格関係をとるので,併せて教えるほうが良い」のだろうか。例えば,「苦労してやったことが報われない」を表現するのに,「無駄骨/無駄足/徒労」がある。「無駄骨折る」や「無駄足踏む」は「」(ヲ格)だが,「徒労帰す」は「」(ニ格)である。「常に同じ格関係」という部分は不適当であろう。

 「どの語を提示するかは,学習者の生活環境や背景を考慮して決めるのが良い」ように思われる。事実,発表されている,解答「速報」(ぼく以外のアーク,アルク,大原,最後に出た千駄ヶ谷)は,すべてこれを正解としている。「学習者」を配慮して「語の体系」を提示するのが最も適当だということらしい。
 ところで,学習者の「同一性」や「均質性」はどのように確保されるのだろうか。20人の学習者の生活環境や背景は,教授環境の中で「同質」なのだろうか。同じ教室で学ぶ学習者なので,「学習水準」の同質性を保つのは,まだ容易に思うが,「生活環境」と「背景」について,どの程度教育機関や担当教員は把握できているのだろうか。ぼくには,これを「正解」に導く,根拠がよく分からない。

 「教室活動の中で体系として語彙を提示する場合は,すべて既習語のみで行うのがよい」のだろうか。つまり,「体系として提示する」前にすべて,「既習」の状態にしなければいけないのだろうか。概念は,類義というより,対義のものは,単独で提示するよりは,どちらか片方が既習の場合により理解しやすいように思う。

 「コロケーションの中で共起する頻度が高い語は,できる限りすべて導入したほうが良い」。ぼくはこれを選んだ。「コロケーションの中で共起する頻度が高い」のであるから提示したほうがいいだろう。「できる限り」というのは努力目標であるから,「すべて」と書かれていても多少は緩和されている。

  ☆  ☆  ☆  ☆

 この問題の直前の段落には,「中級以降になると,こういった学習活動において出てきた語をきっかけとして,類義語や,対義語,上位語,下位語,コロケーション(結びつきの強い連語的表現)などへ拡張し,体系の中で語彙を整理していくことが有効である」という文が置かれている。「こういった学習活動」とは,その前文にある「読解や聴解,作文,会話練習などさまざまな学習活動」を指している。

 この問題に対する「解答速報」は,「集団極性化」を起こしているような気がしてならない。教材や教室活動で採り上げる語彙は,学習者のニーズの高いもの,という初級指導の原則が足かせになっているのではないか。

2011年11月 6日 (日)

実物投影機に関するあれこれ

 今年の日本語教育能力検定試験に「(実物投影機)」を使った問題が出た。「OHC」の説明としての括弧書きだ。
 う~ん。OHCと実物投影機は,本来同じものではない。機能的には同じだが。実物投影機は,小学校高学年か中学に入ってかは忘れたが,自作したことがある。ここで言う「自作」は小学校の工作でできる自作である。簡単に言えば,銀紙(アルミフォイルなぞはなかった)を内側に貼った箱(開閉自由にしておく)の中に電球ソケットを取り付ける。電源は,外からとったように思う。箱には投影用のレンズがはめ込まれ,この箱の中のものが,暗闇のスクリーンに拡大されて映し出される。そういうものだった。自作のものがどこへ行ったかは,40年も経つので発見不能である。母親が捨てた(40年ほど前に)かもしれない。Wikiには19世紀のケンブリッジで作られたものの写真があるが,そんなごついものではなかった。
 その後,31~2ぐらいの頃,日本アイビーエムとパソコンを売りの行脚をしていた頃(アイビーエムはDOS-Vパソコンが売りたい,ぼくはソフトが売りたい,ソフト兼株価データ供給会社は継続契約を結びたい,で組んでいた)に,福岡のパソコン販売店でOHCを見た。何に使ったかは,うろ覚えだ。多分,マウスを使うぼくの手元とか,『週刊チャートブック』(Googleで検索をすると【最も歴史ある株価チャート誌】だそうだ)だかを撮したのだろう。そこの社長に値段を聞いて,買うのを躊躇したのを覚えている。セミナーか何かに使おうと思ったのだろう。
 35からアークアカデミーの日本語教育関連の仕事をしているが,つぎに,「実物投影機」という名称を耳にしたのは,慶應義塾SFCの長谷川恒雄先生か,当時龍谷の永保澄雄先生のどちらかの先生からである。技能実習制度が始まった頃に,JITCOの研修の合間に余談で聞いたのなら長谷川先生なのだが,耳にかすかに残るお声からは永保先生になる。

  ☆  ☆  ☆  ☆

 どちらかわからないのは,内容は慶応に関することだから。
 当時,すでに,慶応では漫画を使った日本語教育に取り組む実践グループがあった。その研究発表を学会(日本語教育学会)で行おうとして,漫画の著作権者の許諾を得ようとして,叶わなかったのだという。漫画は「サザエさん」。著作権を管理していたのは,姉妹社だと思う。長谷川町子はすでに鬼籍に入っていたとか。
 学会発表は,複製を配布することあたわず,実物投影機を用いてこなした,と伺った。

  ☆  ☆  ☆  ☆

 そんなOHCについて「紙媒体ではなくOHCならではの特性を生かした効果的な活用例としてもっとも適当なもの」を選べ,と言われ,ぼくは,会場では躊躇なく「その日の朝刊の社会問題……」を選んだ。新聞のコピーなど,しかも,「その日の朝」と来れば,著作権者の許諾を得ることは「不可能」ではないか。と,ぼくの作成した解答を検定担当者に送った。しかし,待てよ,この選択肢すべてコピー可能なものばかり。つまり,その観点からの出題ではないかもしれない。コピーがその日できないという点では「朝刊」だが,こちらは逆に学習者の人数分「購入」することもできる。ラスパイユにある語学学校へ通っていたとき,別のアリアンス・フランセーズに行っていた学生が,「明日は新聞を買っていかなければいけないんだ」と言っていた。その日の読解が,ル・モンドなのだそうだ。これなら,著作権問題はクリアされる。著作権方面の引っかけにかかってしまった。
 といわけで,正解を「グループ別に作成させ,それらを映してクラス全体にシェアする」に変更した。この問題は,少数派からの乗り換え。正解の選択肢もコピーでいいのだが,クラスに「間」が生じる。やはり,コピーに赴く時間は効果が低いし,カラー・コピーにするかどうか(最近は安くなったんだけどね)はやはり問題だ。

「文章理解における予測の機能」

 石黒圭のちくまプリマ-新書が届いた。
 昨日頼んだものが,昨日のうちに届いていたようだが,退社した後だった。今日来てみて,午前中に配達してもらおうと思ったら,○七○○までに連絡しなければいけない。〇八一〇に出社したので,午後一番の一二〇〇~一四〇〇になるよう24時間自動受付に入れておいた。

  ☆  ☆  ☆  ☆

 石黒の言う「文章理解における予測の機能」については,誤解もあるかもしれないので,少し長くなるが引用する。
 「歩道を自転車で走っていたら,突然道ばたの草むらから白いものが飛び出し,目の前を横切り,野菜畑のほうに走っていった。」という文の後を想像しろ,という実験をしたらしい。「ウサギ,ネコ,イヌ,ネズミ」の順で予想され,「予測なんて当たらない」「想像してくれと言われたから想像したので,普段は直後の文を読んで確認するので,予測なんかしない」などの答も返ってきそうだった。
 しかし,石黒の言う「予測」は,「具体的な内容を想起すること」ではなく,「白い色をした動物についての説明が来る」と考えることだと言う。
 「あとに続く展開の幅を限定するの」が「予測」なのだ(p10)。
 「もし予測がなかったらどうなるでしょう。文章理解がとてもしんどくなるはずです。予測があることで,後続文脈の候補が絞られ,無駄な処理をしなくてすむようになり,文章理解の経済効率が格段に上がります」(p11)。Yosoku_dedokkai_nitsuyokunaru「予測は車のウィンカーやブレーキランプのようなもので,いつも点滅あるいは点灯していたら,後続のドライバーにとってはかえって目障りになります。」「一方で,文脈の展開の大きな節目にさしかかると,予測が複数起きることがあり,とくに新たな話題が導入された直後に多く見られます。」(いずれもp39)
 少し持って回った言い方になるが,石黒は「予測が起きる」と表現し,「予測を始める」とは言っていない。予測のシステムが「自動的」であることを示している。さらに,あとの文で「予測が複数起きることがあり」というのは「後続文脈の幅を広げ」,と読めそうである。これに対しては「新たな話題が始まった直後というのは,読み手の文脈が安定せず,さまざまな読み取りの可能性が考えられるからです。話題が進行すると自然と内容が絞り込まれ,予測の可能性は狭まっていきます。」(同)と答えている。

  ☆  ☆  ☆  ☆

 「一口に予測といっても,そこにはさまざまな種類が見られます。」(p41)
 石黒は,まず,「予測の及ぶ範囲の広いものと狭いもの」をあげる。狭いものであれば,直後のいくつかの文で実現し,解消する,というのである。
 「教師のそうした詰問に,彼はまるで夢からさめでもしたように,きょとんとした顔を上げた。」という文に対して,石黒は【それからどうするのだろうか?】という予測が起き,次の文「そしていかにも困ったという風に訴えた」で,この予測が解消された,とする。
 さらに「問いの予測(後続文脈に問いを発するもの)」と「答えの予測(問いだけでなくその答えまで用意されているもの)」があるという。先の【それからどうするのだろうか?】は,「問いの予測」である。
 「その粘土細工の時間にもF(教師)はあまりの事に彼のそばに行って,やや語調を荒くしてたずねた。」という文に対する【何とたずねるか】という予測は「答えの予測」である。
 最後に,「今読んでいる文に情報の不全感があって」,「文の情報の不完全な部分を補おうとする予測」を「深める予測」と言い,「接続詞を使って,つぎの展開を知ろうとする予測」を「進める予測」と呼ぶのだそうだ。

  ☆  ☆  ☆  ☆

 石黒は,「当たる予測と外れる予測」という見出し(p44)に続く一連の文の中で,「予測が外れた場合でも理解に貢献する場合があります。」「逆接(ここでは,「しかし,ただ」などの接続詞をともなう表現)というのは,順接の予測を前提に,それを外すことで成り立つ表現」だと説く(p45)。

  ☆  ☆  ☆  ☆

 第二章の「予測とは?」のまとめにあたる箇所に次のようなものがある。
 「つぎにくる内容を一つに決定するのではなく,ある程度限定するのが予測の基本的な働きだという点は大切です。」(p48)「また,予測というと,つぎにくる内容を意識的,積極的に解釈しようとする働きと思われることもあります。これも,そうした場合がないわけではありませんが,多くの場合は読み手の中で自然に湧いてくるものです。」(pp48-49)「もちろん,推理小説で『犯人が誰だろう』と考えたり,恋愛小説で『どんなエンディングを迎えるのだろう』と考えたりすることもあります。しかし,その場合は,文章の理解過程で起こるものではなく,文章からいったん目を離して,頭の中で思いめぐらせるものです。」(p49)

 試験Ⅰ問題9問1
 選択肢1が不適当であることについては,異論はないようだ。3,4が不適当であり,かつ2が積極的に適当であることは,石黒圭に基づく「文章理解における予測」に関しては上記の引用から問題はないと考える。

注文書籍が到着する前に

 10月31日に右眼の白内障手術をした。
 ぼくは,小学校2年から近視のメガネをかけている,高度近視だ。50年近く眼鏡かコンタクトレンズのお世話になっている。40を過ぎる頃から,老眼も入り,遠近両用も試した。近年は,余りよく見えない眼鏡と,よく見えはするが遠近両用でないコンタクトを併用していた。
 先週末金曜日に右眼の術後検診が一通り終わった。経過良好とのことである。ただし,まだ4週間ぐらいは,抗生物質を点眼し続ける必要がある。手術により「傷」がある状態だから。
 今週の金曜日に左眼を手術することにしている。

  ☆  ☆  ☆  ☆

 右眼がどのように回復したのか,家人も社内も「ものすごく見えるんですよね」と尋ねる。難しい。単焦点の人工レンズを入れたので,ぴたりと合うのは大した距離ではない。一番会うのは30センチぐらい。モニターも,普通の距離だと10.5ptは厳しい。140%ぐらいまで拡大すると50~70センチで充分見える。しかし,30センチなら,文庫,辞書,はっきりと見える。これが今までと異なる点である。火曜日に眼帯を採って初めて視力検査したところ,近視のレンズを入れてもらったら「2.0」を超えるところまで見える。これは,小学校3年以来じゃないか?そのあと「裸眼(人工レンズ入りの)」を計ったら,「0.88」だった。左右が手術後安定してから,メガネを処方してくれるらしい。
 今,左右を比べると,明らかに右眼のほうが「景色が明るい」。蛍光灯の部屋で,右は蛍光灯に,左は白熱灯に感じられるぐらい違う。

 近づくとボヤけるので,老眼鏡で試してみた。+2.50(これはダイソーで買ったか)で見えるカレンダーの小文字が5センチでも見えた。手術後の右眼は5センチで判読可能ではあるが,「見えている」というのは無理な距離。

  ☆  ☆  ☆  ☆

 配達人がやってきた。指定時間の5分前だ。

2011年11月 5日 (土)

『モッキンポット師の後始末』/バチスタ手術

 会読会では,小説を採り上げない。だから,タイトル本の要約を作ることはないだろう。ここ二日ほど,井上ひさしを立て続けに読んだ。新しく買ったものではなく,以前求めたものを機会を計っていたら,白内障の手術で,16日ほど酒が飲めない。別に,四国八十八カ所(内,27番までしか行っていない,いわゆる「区切り打ち」)を歩いたときは,酒はなかった。飲む気もなかった。飲もうと思えば飲めた。しかし,歩きながらなので,読書はできなかった。酒を飲みながらの読書もいいが,まとまって飲まない期間があると,普段より2倍ぐらいの読書量になる。ぼくは,買った本を,すぐ,端から端まで読む,というスタイルは採っていないので,今回はちょうど良かった。また,岡野塾で出た,目次とタイトルを見て,「ここが胆(キモ)」という読み方もやってみた。
 昨日読んだのは,3冊。『日本語教室』『にほん語観察ノート』が井上,『外科医須磨久義』が海堂尊。

  ☆  ☆  ☆  ☆

 『日本語教室』は,井上が出身の上智大学で4回講義をするというもの。Nihongokyoshitsu帯から拾うと,母語は精神そのものです/言葉は常に乱れている/朝日新聞の「新」の自が意味すること/東北弁は標準語だった!?/芝居はやまとことばで/「美しい日本語」などありえない/茂吉の名歌に学ぶ/音読のすすめ/駄洒落の快感/日本人に文法はいらない/モンゴル語を勉強した司馬さん/世界に開かれた日本語に,である。
 中では,「スペイン語が国連公用語になった理由」が面白い。ぼくの不明を恥じたが,果たして井上の解釈でよいのか?しかも,この節は,タイトルと節末の結びがバラバラで小論文としては落第点に近い代物である。しかし,井上の文章は,読みやすく,したがって,岡野さんの言うように「忘れやすく」,果たして,永遠に心に響いたり,頭の片隅に残ったりするのか,霞のように不明なところが魅力である。
 例えば,スペイン語が国連公用語に採用されたのは,第二次世界大戦中に,中立国として,枢軸国と連合国が戦っていく過程で生じる悲劇を「徹底的にカバーした」からだという。そうして始まった節の結びの段落が,「日本語をちゃんと何不自由なく使っているわれわれが,どうして日本語をもう一度勉強し直すか。それには,こういう状況があるからですよ,ということを,まずお話しいたしました。」では,節鯛がちんぷんかんぷんだ。おそらくは,井上には責任がないのだが,講義は限りなく話し言葉,また,井上のものは即興が多分に多いのだろう。あとから編集した誰かがインパクトのある題目を掲げたのだが,「羊頭狗肉」に近いものになったようだ。

  ☆  ☆  ☆  ☆

 続いては,「にほん語観察ノート」。「1999年から2000年にかけて、読売新聞日曜版で連載されていたコラムが1冊の本になったもの」だそうだ。中公文庫版のp253から「二十一世紀の流行語」とある。1999年8月1日に掲載されたもののようだ。
 共同通信7月18日ロンドン発の記事を引いている。

Nihongokansatsunote
 岡野塾と同じテーマを12年前に書いているのだが,その頃のデータでは,地球人口は「2013年には70億人」とある。2年も早く,目標(予測?)に到達したわけだ。こうしたことを見るに付け,新しいものばかりを追いかけてはいけない,と自戒する。ほんの10年ばかり前でも振り返ると,「歩みがのろい」のか,「早い」のか,変化はあったか,亡かったかを見る機会を与えてくれる。
 p135には,「拗音の直音化」とあり,この頃に,アナウンサーが「手術(シジュツ)」といっているという愛媛からの当初を受けて,井上が考察している。そして,「わたくしが専属で書いていたころの話ですが,「シュ,ジュを含む発音のことばの中で,発音しにくいものがあれば,シ,ジに近く発音することも認める」(「文研月報」65年4月号)と決めていました」と紹介されている。46年前にNHKは「直音化」を許していたのである。何も10年そこらの流行でもなかったのだ。もっとも,そんな典拠を示されなくとも,現象には,なにがしか気がついていたし,ぼく自身が「言葉とは,替わるものだ」という実感を強く,持っていたので,気にならなかった。気にはしていたが,所詮そんなものと諦めていたのかもしれない。
 それにしても,役所というのは前例を踏襲したがるのに,カタカナ語を導入したがり,横の部門との違いを強調したがるのだろう。PKOでの外務省と防衛省の諍いがあるようだが,結局は,縄張り意識が強いのだろう。
 もう一つ,p53からあるのが,「語彙数推定テスト」はどこかでやったことがあるような,ないような。50並べられた語彙の何番までが分かり,その次から分からなければ,被験者の理解語彙は推定n語というようなものだ。ところで,これは飛び越すとどうなるのだろう。43番の「辻番」を説明できるけれど,42番目の「告諭」は知らない,とかはどれぐらいになるのだろうか。45番の「輪タク」は知っているけれど,44番の「ライニング」は聞いたこともない,ということもあるだろう。これの元になった,NTTコミュニケーション基礎科学研究所は,今何やってるのか,ちょっとサイトをのぞいてみよう。

  ☆  ☆  ☆  ☆

 海堂尊は,医師であり,『チーム・バチスタの栄光』以来,ヒット作を連作している。昨日,『外科医須磨久義』を読もうと思ったのは,とてもミーハーな動機である。原作は読んでいるが,映画は見ていない。どこで読んだのか,多分,『ブラックペアン~』の後ろに付いていた対談。吉川は,準主役の天災外科医を演じたらしい。その指導に,須磨久義が当たったそうだ。

Gekaisumahisayoshi
 これも,単行本の割に1,200円と安く,これは,ベスト・セラーだからだろうか。奥付を見ると2009年7月に1刷,8月に2刷になっている。ベスト・セラー作家のものだから3万部ぐらいは出たと思われる。
 須磨は1950年の寅年生まれ,神戸の出身で,甲南中・高から大阪医大へ進む。現役だ。そうした,挿話で綴られたもので,海堂自身も,須磨の語りをまとめたものと,解題からという風に最初からネタばらしをしている。読んでいる(ほとんど映像感覚のもの,途中から,使われている外来語を漢語か和語に置き換えられないか,と考えながら読んでいたので,ドキュメンタリーというよりラブ・コメ並みの小説の読み方)と,「あれっ,これって,プロジェクトX向きじゃん」と思っていたら,本当にやっていたのだ,それも10年以上も前みたいだ。
 「神の手」と呼ばれる心臓外科医の存在と須磨の名前が,ぼくの脳でリファレンスがとれていなかったようだ。呼んでいる途中でも「バチスタ」が人名だから,当然「スマ」という術式が出てきてもおかしくないのに,これが「須磨」の名前由来だと分かるのに数ページも行き過ぎた。アメリカの医師の所感の中に「スマ等」とあり,スマートなんちゃらの略の「スマ」だと思っていて,これに「等」が付くのはおかしいよな,と5ページぐらい戻ってみたが,スマートもスマイルも見当たらず,あ,そうか,と思った次第である。
 須磨の手術は早いらしい,いや,早かったらしいと言うべきか。同時に始めた公開手術が佳境に入る頃に,須磨はすでに手術室から出て,会場で,オブザーバーたちと別手術のモニターを眺めていた,という逸話があった。須磨に言わせると「早さ」とは,どれだけ,イメージができているかだという。ネガティブなイメージから始まり,それを克服する過程をイメージし,手術室に入る頃には,手術終了,成功して出てくるイメージを持つのだそうだ。
 だから,無駄なことはやらない,いきなり本線に取りかかる。傷口の縫合も急ぐのではなく,リズムをとって休まない,ということらしい。
 プロジェクトXのDVDは単体売りをしていない。7巻セットで26,600円である。ビデオは教材としても,本書はどうしよう。研修用の書籍とするか。

2011年11月 4日 (金)

わたしも3カ月間ハワイに行きました。

 タイトルのような文を学習者から言われたら,何を直すべきだろうか。

    ☆    ☆    ☆    ☆

 「馮さん,それは3月に行ったってこと?」と問いただすのだろうか?もし,聞き手が,こうした情報を持っていれば,そういう直し方もあるだろう。この場合,「サンカゲツカン」ではなく「サンガツ」と訂正することになる。これは,何の誤りだろうか?「月(ガツ)」と「カ月(カゲツ)」は,助数詞の差だろうか?前者は,12までしかない。数えている,というより,月単位の季節の名称だろう。と,思ってSHARPのBrainを,逆引きで引いてみた。「十三月」(正月の別名)というのがあり,13までが付く,らしい。ともあれ,他の助数詞といは少し違う。「つ」も和語系の数詞に付き,9までしかないが,助数詞の中に入れる。これは,具体的に物を数えているから。「3月」には「弥生」という言い方もある。
 「カ月」のほうは,「箇月,個月,ケ月」で見出しがあり,「《接尾》月数を数えるのに用いる語。」と書かれている。この二つの取り違えを「助数詞の選択の誤用」と呼ぶのは無理がありそうだ。

    ☆    ☆    ☆    ☆

 「馮さんも『喫茶ハワイ』でバイトしてたの?」。これまた,聞き手側にそうした情報がある場合には可能だろう。ところで,馮さん(仮名)が喫茶「ハワイ」に「行きました。」というのは,この場合,誤文だろうか?
 「【期間を表す副詞句】+動詞の『ル形,タ形』」は,反復・継続を表すと考えていいだろう。継続の場合は「働く」「勉強する」などの動詞だろう。その場合,「ハワイ『に』」ではなく「ハワイ『で』」になるから,誤用を訂正しなければならない。誤用は「助詞の選択の誤り」である。
 しかし,この文の動詞は「行きました」である。「通う」「つとめる」でも同様だ。動作の場所を表すのは「で」だが,「行く」などの動詞は到着先を表す。この場合,助詞は「に」なので,誤用はないことになる。

    ☆    ☆    ☆    ☆

 「馮さん,それ来月からのインターン研修の話だよね?」と聞き返すことも可能だろう。これまた,聞き手が,そうした情報を持っていなければ,誤りの指摘はできない。この場合は「時制の選択の誤用」と言えるだろう。
 「わたしも3カ月間ハワイに行きます。」が正確な言い方になる。

    ☆    ☆    ☆    ☆

 では,聞き手に何も情報がなく,また,「ハワイ」が会話の場所から通える施設でもなく,まさに,アメリカ合衆国のハワイ州である場合はどうだろう。「3カ月間」であるなら,「行きました」という完全相ではなく,「行っていました」という継続相の過去形を使うべきではないか。ぼくが学習者の事情を知らない立場で,いきなりこの文を言われたら,「ははぁ~ん。『行っていました』を使いそびれたな。」と考える。この場合は,「相の選択の誤用」になる。

2011年11月 3日 (木)

井上ひさし

 『國語元年』を「読んでいる」と書いたが,右眼に保護眼帯をつけても読めてしまい,続けて

Kokugogannen

『私家版日本語文法』に取りかかっている。この調子でいくと,『日本語教室』『にほん語観察ノート』と続いていくのか。井上ひさしは,「ひょっこりひょうたん島」の時から。しかし,読んだと言えるのは『吉里吉里人』ぐらいか。『私家版日本語文法』は,日本語教師が「発想を支える地頭力」を鍛えるために読んでもいいように思う。
 「シク活用」は「ク活用」に対して「人間の情意を表現するもの」という時枝

Shikabannihongobunpo

誠記説を敷衍した学習院学部生の山本俊英が表した論(『国語学』昭和30年12月号)に,井上が追加している。「私(シ)が入って主観化した」とか,「折しも」の「し」や「定めし」の「し」を持ち出して「あるいはまた強勢接尾辞の『し』だったろうか」とツイートる。さらに,シク形容詞は感情形容詞として「がる」がつけられて「四段活用の動詞を作れば,有情か無情か,すぐに判明する。」という。このあたりは,ネイティブ日本語話者が検定試験用の知識として「属性形容詞と感情形容詞」を覚える無意味さを気づかせる。ついでながら,「がる」は(「がある」で),「と思う」であり,これは「情意を作る接尾語」なのだそうだ。
 こう写していて思い出した。「がる」からの連想。「さらなる」の誤用である。野口悠紀雄が徹底的に攻撃していた。以前,「さらにある」の短縮形ではないか,と述べたが,岡本綺堂の『平家蟹』にあるらしい。それならば,少なくとも全共闘世代の創作ではあるまい。

   ☆   ☆   ☆   ☆

 「代名詞研究史」なる言葉も登場する。「安田喜代門を経て佐久間鼎と出会う」のだそうだ。佐久間が「コソアド」の命名者であることは有名だ。しかし,二人称代名詞の価値下落について一家言を持っていたことは初めて知った。なるほど,さもありなん。知りたい方は,文庫版のp68を参照されたい。ちなみに,この章の題名は「自分定めと縄張りづくり」である。

2011年11月 2日 (水)

少数意見

 過日の試験問題にこんなのがあった。「〈 〉の中で示した観点から,一つ,他と性質が異なるものを選ぶとしたらどれが適当であるか」。原文とは少し違う。「観点から見て」は冗長だと思うから。

 こんな観点であった。

 〈動詞の性質によるタの解釈〉

 これまたわかりにくい。一般の日本語の使い手は,こんなことは考えていないかもしれない。ちょうど今,井上ひさしの『國語元年』を読んでいて,「国語」は「フツー人」の手(口と耳と言うべきか)によって,生まれたり,変わったりしていた,という実感を味わっている。それにしても,生前,井上が再放送してほしい,と懇願していたのに,NHKがDVD化したのは2006年のことだった。

 閑話休題。

 話をはしょるために下線の引かれた動詞を掲げる。「あった」「曲がった」「折れた」「なった」「解けた」である。「タの解釈」と言うからには,少し以前であるが,うちの教科書をひもといてみよう。こんな文がある。
 「過去形については,過去のテンスを表す用法があることは既に見た。では,テンスのほかにどのような用法があるのか見ていくことにしよう。」
 ここでは,「過去形」と呼んでいるが,動詞に関して,日本語教育では「タ形」と呼び,「ル形」と対比させる。中学校の文法では,「連用形+た」と「終止形」の対比である。そうして,過去形(タ形)と現在形(ル形)を次のようにまとめている。
 動詞文のテンス
過去形───過去
現在形─┬─未来─── 動作性の動詞
      │   └─── 状態性の動詞
       └─ 現在─── 状態性の動詞
 つまり,タ形はすべての動詞で「過去」を表すが,ル形は状態性の動詞では,現在を表すこともある(こちらが主流の用法),ということである。

 この問題では,「あった」だけが状態性動詞である。その意味で,「あった」が,動詞として「他と性質が異なるもの」になる。しかし,上の表で異なるのは「ル形」の話である。「タ形」ではない。

 うちの教科書では,その後ろに,「過去形のその他の用法」をいくつかあげている。一つ。「もう」という副詞を伴って「完了」を表す。さらに,相撲の「待った」や「どいた」のような,「命令」。物の存在を「(見つけて)あった」というタ形を使う(物は「現在」そこにある)。過去に決めた予定の確認「何時に始まったっけ」などなど。

 しかし,今回の試験問題に当てはまりそうもない。ぼくは,今年の試験会場で平成5年のこの手の問題を,思い出していた。「やめる」の意味の違いによる仲間外れ探しだ。解答は出したがよく説明がつかない。翌日,受講生受験者で,元気のよいKGさんに聞いた。KGさんは全日本国民的美少女コンテストに優勝した少女(当時)と同姓同名。こちらのKGさんもなかなかのもの,おっと,本線へ戻る。「ほかの『やめよう』は今やっていることについてでしょう?5番は「明日の運動会」だから,これにしました!」

 この閃きは,試験会場でぼくの頭に舞い降りた。「雨が降って運動会が中止になった」の文は,運動会の前日に発話できる。他の文は,「明日」を修飾要素として「喫茶店があった」「ノートが曲がった」「木が折れた」「雪が解けた」とは使えない。「3年前」「昨日の台風で」という修飾があるぐらいだ。

 かくして,またもや「少数意見」の立場に立った。アルク,大原,ヒューマンが何人で解答を作成しているかは知らない。仮に一人ずつだとしても,アークの他の解答者も含めて,「中止になった」のを推したのはぼくだけだった。

2011年11月 1日 (火)

「特定の事物を照合する」とは

 10月23日に試験が行われた。試験Ⅱは,「試験Ⅱを始めます」から「これで試験Ⅱを終わります」までが33分だった。監督員は「問題が録音で提示されるため,終了時間が前後します」と言っていたが,「録音」であればこそ,きちっと終われるはずだ。またまた,30分超の問題をつくって出したというわけ。


    ☆    ☆    ☆    ☆

 学習者向けの聴解問題に対する出題がある。聴解問題の目的などを問うのである。選択肢には「特定の事物を照合する。」とか「二つの情報を比較する。」とか「できごとの順番を聞き取る。」,「相手の意向を判断する。」がある。

 聴解問題は,こんな感じだった。

「姉と弟が話しています。弟は最後に「わかったよ」と言いますが,何がわかったのですか。

    ☆    ☆    ☆    ☆

姉:ねえ,冷蔵庫に入れといたプリン三つ,知らない。
弟:あぁ,プリン。お姉ちゃんのだったの。食べちゃった。
姉:えーっ,三つともぉ。今日,友達が来るから,出そうと思って,昨日買ってきたのに。
弟:ごめん,ごめん。あとで,コンビニで買ってくる。
姉:コンビニぃー。コンビニのプリンなんて出せないよぉ。もう,いいよ。駅前のケーキ屋さんでなんか買ってくるから。
弟:コンビニのプリンをバカにすんなよ。昨日,テレビ番組のコンビニ・スイーツ特集で何とかプリンがうまいって,やってたよ。
姉:そうなの。でも,まずかったら承知しないからね。
弟:うん,わかったよ。

    ☆    ☆    ☆    ☆

 弟は,最後に「わかったよ」と言っていますが,何がわかったのですか。
1 ケーキ屋のプリンがおいしいこと
2 コンビニのプリンがおいしいこと。
3 プリンを三つ食べたこと。
4 コンビニでプリンを買ってくること。」

 あらかじめ,「何が分かったのですか」と聞いているので,この,まさに最後までのところまでで,「分かる」ことを探すわけである。とすると,一見スキャニングのようだが,それほど単純ではない。この姉弟の会話は「~といた」「お姉ちゃんのだったの」「買ってきたのに」は,話し言葉になれていないと,結構難しい。
 「駅前のケーキ屋さんでなんか買ってくるから」は倒置である。文章構造の理解で,この部分を「食べちゃった」の理由と解釈する学習者もいるかもしれない。

    ☆    ☆    ☆    ☆

 ネイティブであれば,この聴解問題の解答はやさしいだろうか。おそらく,最後の部分は,姉が妥協して「コンビニで弟の買うプリン」を受容していると聞き取れるだろう。弟は「まずくない」と主張するコンビニのプリンを買いに行くのだろう。この,弟の「代替提案」と姉の「妥協」を理解できているかどうかが,評価の目的になっているのではないか。「特定の事物」とは,コンビニのプリンなのだろうか?テレビ番組の情報を,姉も弟も「照合していない」ように思う。

    ☆    ☆    ☆    ☆

 この聴解問題の姉弟の会話は,どのような学習者にとって難しのだろう。「コンビニでプリンを売っている」「コンビニで売られている物は,客(友達)には出せない」というような文化の知識がないと正解には,もちろん届かないかもしれない。その前に,省略,倒置,「~たら承知しないからね」の脅し(程度にもよる)が聞き取れなかったら,絶対にまぐれ以外では正解にたどりつかない。
 ちなみに,1998年に出版した『風のつばさ』では,ファミリーマートを使った,会話練習ページがある。コンビニが日本において,様々な商品開発を行っていることは,この話し言葉が理解できる程度の学習者には分かるだろう。さらに,グリコのプッチンプリンと不二家とで,どちらがおいしいか,客(友達)に出せないか,は主幹の別れるところではないか?

 試験会場で聞いていて,「テレビ番組」「コンビニスイーツ」「なんとかプリン」というあたりが早口で,そもそも学習者向けの聴解問題として成立するのかな,という感想を持った。

« 2011年10月 | トップページ | 2011年12月 »