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2009年11月14日 (土)

歴史

 大阪校の沿革を記録しておくというのは大切なことだ。2003年の8月27日の法人設立登記を起点とするのが妥当だろう。9月29日に日本語教育振興協会へ申請書を提出したが,審査部の浅井さんからは,お情けで受理してもらい10月にいろいろな書類を追完した。審査は確か12月だったと思う。新規審査,増員申請審査,京都校審査には柴田委員が必ず来校したが,この地域の担当だという。年が明けて,追加の改訂(改装を伴う)を報告して3月10日に「認定証」が到着した。この段階で学生はゼロである。ぼくは,アホみたいに座っていた。経営者どころか,派遣された「親会社の社員」でもなかった。でも,10月に「学生」が「二人」来たことは,「現実」で「嬉しかった」。

2009年11月13日 (金)

『4分の1を捨てなさい』

 藤間先生の本が届いた。藤間先生は,3歳年上。まあ,この歳で何歳かは関係ない。
 読みながら,前向きに考えることを考えてしまう。ただ,言えることは,「安定」を目指すのはうまくいかない,ということだ。「安定」というのは,「この人はこれに向いていてここが最適所」というようなことを,部門長であれ,社長であれ,本人であれ,思っているようではダメじゃないかと思う。こんな言い方をすると「適材適所」でしょ!。不向きな仕事をさせても,本人のためにも,組織のためにもうまくいかないんじゃない!」という声が返ってくる。
 本当に「最適」なのか。誰がその人の「最適」を決める。本人か?本人がわかっていることは,「わたしにできないことはこれかもしれない」というふうに思う。もちろん,何の萌し(きざし)もないことを「できるだろう」とは言わない。その意味では,人間の「可能性」は,藤間先生の言ではないが「無限大」だ。

2009年11月12日 (木)

続けたら本物になる

 タイトルは,木村勝男(かつお)さんの口癖。アークアカデミー大阪校ができた頃は,学生も少なく,木村さんのアーバンベネフィットの朝礼に毎週参加していた。木曜日の朝8時から1時間弱だった。全国から,この好業績の会社,少人数の会社の朝礼を見ようと10人から30人近い見学者が来ていた。本社を移してからは,「出社の道すがら」とも行かなくなって,参加していない。しかし,週1の朝礼が1000回というのは20年近くであり,その2000回目に参加できたことももはや3年前である。

 「続けたら本物になる」は,言い得て妙だ。「本物」になりきれないものは続かない,ということになる。10年続ければ周りの目は変わる。しかし,10年ぐらいはどこにでもある。20年続くと,多少は認知される。でも,知人の子どもが覚えてくれている程度だ。その子は,知人が目指して入学できなかった国立大学にいると言う。多分60年ぐらい続けば,本物という人が多くなるかもしれない。森重久彌も60年を超えているから,昔のセクハラまがいの「非行」が「想い出」と語られる。悠木千帆(現,樹木希林のほう)を「抱き」ながら,転げ回った場面も,そうだったのだろう。そう,森重久彌は,ぼくにとって「祖父=七人(しちにん)の孫」に近い存在だった。もっとも,実際は,ぼくの祖父は,3歳で父方が逝き,13歳で母方が逝った。どちらも,大往生だったと思う。70歳,80歳を超えていた。

 アークアカデミー大阪校の長期ビジョンとして,抽象的には「続ける」だが,ビジョンが抽象的ではすわりが悪い。松下幸之助に習うと250年計画を建てるところだが,せめて100年先,そこから見える20年先のビジョンを語ろう。

 学校と寮(不動産関係事業者との協力と自前の寮)が,320人規模で安定的に提供できる体制。進学と就職の両面で学生に対しての学校の「出口」を示せる体制。講師の7割以上を占める女性の職場として,出産とその後に復帰できる体制。就職と研修に貢献できる体制。卒業生ネットワークを通じて入学,入寮,卒業,就職を共有する体制。そのアーク’ズを支え合う体制,そして,それが,社会に貢献していると自覚できる体制を目指す。

 拠点校への入学促進のための新しい紹介経路探索,卒業生の進学支援の推薦枠の拡大,就職支援のための企業とのマッチング,それを支えるスタッフの育成,支援から始まるように思う。

 やることはたくさんある。楽しい。

2009年11月11日 (水)

『増補 ノーベル賞経済学者の大罪』

 カテゴリーは,「経済」だろうか。「日記」なのかもしれない。ディアドラ叔母さんによる,やや古いものをちくま文庫で読んでいる。原著は1996年だから,決して,新しいとは言えないが,「統計的検定の有意性」に焦点を当てて,経済学者を批判,非難している点はとても興味深い。
 この本は,本当に眠い。自称ディアドラ叔母さんのフェミニストぶり(これは正当だと思う。ノーベル賞経済学者に女性はまだいない)や,その叩きぶりが冗長に思われ,繰り返しに耐え難い。ただし,本質的なテーマは,ぼくも感じていたことだ。
 統計学に基づく仮説検証が「統計的推定」と「統計的検定」である。英語も,日本語も,「推定」より「検定」のほうが,何となく確からしく,よりどころにしたくなる。「統計的推定」は謙虚に推し量り,「このように思われますよ。」と言う。一方,「検定」は,「はい,あなたは正しい。」「いや,間違っている。」というわけだ。しかし,「検定」のほうも,「普通の誤差の範囲ですよ。」「いや,普通より誤差が多い。つまり,そういう傾向がありますよ。」という誤差を5%だとか1%だかで測っているだけだ。5%と言うのは,「100回に5回も起こらない珍しい=つまり,そういう傾向が認められる」のであり,1%の場合であれば「こういう実験(アンケート)をしてみたら,こういう差が出て,それは同じことを100回やっても1回ぐらいしか起こらない奇跡的なことです。この実験(アンケート)の設定は,それが基づく仮説が正しいと言っていいでしょ。」ということだ。
 つまり,「だからなんなのだ」と言うことを心すべきだ。2000年に日本語教育学会の研修会でこの手法を習ったが,そのときのサンプルデータは「ジベタリアン(最近言わなくなった。べったり座り込む若者達)と家族(関係,構成,色々)の相関関係」だった。おいおい,そんなことが簡単に結論づけられていいのか?年収2000万円以上の家庭から殺人者が出てくる確率と200万円以下の家庭から殺人者が出てくる確率って本当に比較できる?それだけのデータを持っている?日本の警察庁でも「有意差」が出るほどのデータはないのでは。そういうこと。
 ディアドラ叔母さんの指摘は,ごもっともだ。経済学で,計量的判断をするべき所に,定性的判断に「統計的検定」を用いていて,「全体」を観ていないというのだ。「有意性」の判定のための1%より,その1%の持つ意味(ディアドラ叔母さんは,経済学ではないが,他の社会学者が「交通違反反則金」と「交通事故犠牲者」の因果関係について1%では有意性が見いだせないとする研究者が,その1%が何万人なるかを「考えろ」と述べる部分がある)を判断しなければなければいけない,と言う,かなり自明の話。
 ついでに言えば,名義尺度,順序尺度,間隔尺度,比尺度という分類と「検定法」についても,アンケートなどの順序尺度が,間隔尺度と見ても「それほど間違いではない」という数学的論証を今年は発見したが,これも納得できる。もちろん,だからといって「好き」「とても好き」を平均することの意味は,結果を使う側で慎重になるべきだ。

 ともあれ,読み終わるべく頑張ろう。

2009年11月10日 (火)

ブログ行方不明,ルーターこけた,読書のすすめ,日朝会談

 ブログ記事が行方不明になることの原因は,ほぼ掴めた。「原稿を準備した」その後で,ブログにアクセスして,ブログを保存するということをしていない。GoogleChromeというブラウザが,ぼくのブログの部隊。パスワードも覚えてくれるし,マシンが変わっても使える。半面,niftyはGmailと違って,「自動保存」をしてくれない。「かまわない」と「切断」されたりする,らしい。また,ブラウザを閉じてしまうと,どこにも「原稿」はない。こんなことを何度か繰り返したようだ。途上国に派遣された日本語教師が「まめにセーブを」とメールをくれたのは,もう15年以上前だが,それと同じことが時と所を変え,起こっている。まあ,人間のやることが10年ぐらいで変わるわけではない。

 「読書のすすめ」というのは,書店の屋号である。アークの鈴木代表のブログで紹介された。TBSラジオの久米宏も懐かしく,本屋の親父のポリシーもそれなりに同感できる。親父のお薦めの「びんぼう神様さま」「かもの法則」。早速ぼくも買った。おそらくその放送を聞いた注文が多かったのだろう。それより後に注文したものが先に着いた。「土曜日に着く」というメールをアマゾンからもらったが,水曜日に「梅田校のルータ」がこけた。
 そのときは,とにかくインターネットができないという話で,担当者が,シフト変更して木曜日梅田に出社した。梅田のルータが上手くいかないということが木曜日判明した。「XPのドライバ(ソフトウェア)がありませんよ」.なるほど,もうそろそろ10年になるルータにはフォロー,アフターケアがないようだ。金曜日に,難波に余っているルータを持っていくことにした。しかし,そのルータの調子がいまいちだ。「動かない」という周りの「悪口雑言」に,「ネットがなければ仕事ができないよ」とは言わないものの,ほぼ同様のクレームを受けて,しかたなく,土曜日にヨドバシでルータを買って入れ替えた。
 3000円弱のIO-DETA社製のルータは快調に動いた。しかし,このYahoo,ADSLがどれぐらいの速度かというと下りでせいぜい0.4Mなのである。「動いていない」というクレームはある意味事実だった。土・日はこうして,梅田校のネット事情の解消で終わった。

 日曜のブロクは,そうしたことと,鈴木代表の「びんぼう神様さま」についての話だったはずだ。

 あぁ~あ。なぜか北朝鮮人民と同調できた月曜日が思い出せない。イムジン河でもないのだが。

森重久彌が逝去

 まあ,そういうわけで,今日何を書こうか一瞬忘れている。

2009年11月 8日 (日)

ブログはどこへ。

 小泉元首相と金正日氏(ちょっと肩書きは適切か?)の会談が公開されたブログを書いたつもりだが,消えている。調査中。

2009年11月 7日 (土)

暗黙知の「恥」もしくは「痴」

 昨日のブログで,岡野先生からコメントをいただいた。「暗黙知」なのか「ただの沈黙か」が不鮮明だとの御指摘である。ごもっとも。このコメントの返答は,コメントにコメントすべきだろうが,少し補足しておきたいので,本編翌日に書かせていただく。
 どちらかというと,最近の講義で「多弁」だと自分で感じている。初期は,自分が気がついたことをそのまま話しているという,いわば半玄人視点だった。現在は,30を超える言語圏の学習者の事例,語例を見てきた経験がある。そうした観点から,無意識に「使える」日本語の特徴,困難点,場合によっては習得容易箇所を教師希望の受講生に伝えている。
 昨日も「音声記号を使って教えるわけではないので」と断り,質問の前にも「音声記号を覚える必要はない」と言うことを2度ほど話している。その上で,「音声記号が分からない」という御質問だったので,「言語化しているのに理解されない」=言語化できない=暗黙知という,少々短絡な理論で書いてしまった。一方,まだ「音声記号」は本格的にはやっていない昨日の段階で,「サンバ,サンタ,山河」のそれぞれに含まれる「ン」の音が違うという例を出したとき,「それは音声記号ではどう書くのですか」という質問も別の方からいただいている。
 ぼくの体験からは,音声記号が「日本語を教える」ために必要だとは思わない。しかし,音声記号を覚えたし,「無声両唇摩擦音」などの言語音の名称も記憶しようとした(もちろん今も記憶されている)。つまり,日本語教師を目指すときに「現場で本当に必要な知識」の下には,普遍的であったり,抽象的であったり,ドリルのような繰り返しで身につけなければならない「もの」がある,と感じているのだ。
 例えば,学習者の言語音が日本語の中で正しく用いられているかどうか,判断し,矯正するというケースを考えてみよう。頭の中で「それは無声両唇摩擦音じゃない,無声唇歯摩擦音だ,だから,もう少し前で発音させなければいけない」と文字化しているわけではないが,後からどうしてそのような指導をしたのかと問われれば,前述のようなことを言うのであろう。もしくは,音声記号「ファイ」の「フ」ではなく「エフ」の「フ」の発音なので,「日本語らしくなかった」,と説明するのかもしれない。
 ぼくは,無知だから「日本語教師はこのようなことを勉強しなければならない」と言われたものをそのまま受け入れた。「恥知らず」でもあったから,日本語教育学会(その当時は2名の推薦が必要だったので先輩教員,講師に無理矢理お願いした。今は推薦はいらない)の大会があると出かけていって,シンポジウムやパネルディスカッションでは質問用紙も書いて,投函した。おそらく,ここに書けない,意識にのぼりもしない「いろいろなこと」をやった。その中で,「非母語話者の学習上の困難点,誤解」には,特に「意識」していたように思う。それが「何のために」という質問に対する,ぼくの戸惑いだ。

2009年11月 6日 (金)

何のために,この勉強をしているのですか?

 今学期は,火曜と金曜日が授業。養成講座で,金曜日は「音韻/音声」だ。4週目。音韻。音素。単音。その中に音声記号がある。最後に「何か,御質問がありますか?」と問いかけた。受講生のお一人が,「音声記号が,全然分かりません」。一瞬,息をのみそうになった。ぼくもプロのつもり。「日本語ネイティブが無意識であること。しかし,日本語学習者にとって『意識化』しなければいけないことの再確認です。だから,音声記号が『わかる』必要はありません。」

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 前回の会読会で,岡野先生がマイケル・ポランニーの『暗黙知の次元』(ちくま文庫,高橋勇夫訳)をあげていた。ぼくは,やっと同書=同訳を手にしたところで,まだ語るべきものはない。

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 「再確認で良いのでしょうか。」受講生は続ける。再確認の意味が,ぼくの心の中で揺れる。本当に「再確認」することは,実は相当「恐ろしい」「自己確認」だとぼくは思っている。さて,「暗黙知」については,かなり皮相な理解だった。自分ができてしまうことの「言語化」の難しさ。「言葉で伝えることは『難しい』」ということは20年前の「日本語教師養成講座」のなかで,その説明会でも,口が酸っぱくなると言えるまで伝えてきた。

 今,ぼくは「説明会」をしていないが,説明会担当者は、ちがう「難しさ」と「挑戦し甲斐」を伝えているようだ。

 しかし,「無意識としている言語能力」を「意識化」すると言うことは,ぼくにとっては,ほとんどこの20年間「当たり前」であった。日本語教師は,すべからく,それを承知していると思っている。

 この「無意識化を意識化することが当たり前」というのは,今現在は,ぼくの「暗黙知」=言語で伝えきれない「概念」「技能」なのかもしれない。

2009年11月 5日 (木)

よけいなお世話

 嫌がらせメールが来た。
 固有名詞を変えて引用する。

以下の話は貴校の生徒○■△のものだ。

Q:さっき マンションに近くところで2.5万円現金と三井カードをひろた。どうしよう?
A:現金をもらって、カードは元のところに捨てる。カードを捨てる前に服で拭いて指紋を残らないようにして。さっそく現場を離れる。
Q:いいの?ところで、明日arcから推薦書をもらえるそうだ。推薦書以外の出願資料をもう全部準備した。明日持って行って、担当先生に確認してもらうつもりだ。明日学校が休みじゃない。午後4時から寿司に行く予定です。最近家族とあまり連絡しなかった。明日先生は会社で父と連絡して、私は元気だと伝えてくれませんか
A財布に入ってたか。カードを切って、ごみに入れてもよいけど、財布など現金以外のものがあれば全部捨てる。ARCのチェックは$#!先生かも、今でも$#!先生がオンライン中だから チェックしてるかも。明日休みじゃなくてよかった。出願書類をゆっくりチェックしてください。お父さんには明日連絡するから安心して。
Q:遅いなあ。もし金をもらえば、カードをハサミで切って簡単じゃない?
A:了解。ではカードとビニール袋を捨てて、お金をもらって、安心してお休みなさい、空からの肉まんでラッキー!それで定期券を買えば?あまりも苦労しているから、心配だ。
LAST:金とカードはプラスチック袋に入っているから、財布がない。では明日はよろしくね。おやすみ。

 ○■△は,現在在籍する学生。$#!先生は,言語スタッフ。学生本人は,このメールのアドレスから,携帯に10件ぐらい,件名なし,本文なしが送られてきているようだ。

 何処の誰が,何のためにこんなことをするのだろう。

 誰かのブログのコメントにもなっている。見知らぬこの方には,失礼ながら「再コメント」で削除をお願いしたところ,削除いただいた。2チャンネルに載せられない「裏掲示板」にも掲載されていた。こちらは,削除はできない。

 微妙に異なるものが3種類。台詞の部分は皆同じ。引用したものが一番会話として体をなしている。ほかのものは会話の当事者の表示がでたらめ。

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